がんばったねなんて言われたくない

そのうちツイ消しあるだろうし該当のツイートへのリンク貼り付けはしないんだけど、内容としては

『バレエをやりこんでいたがプロへの道は諦めて一般の職業へ就活していたら、面接で「なぜプロにならなかったのか」と聞かれて屈辱的だった。私だってなりたくてこれこれこうがんばっていたが~(以下略)』

というものを見た。

自分も声優やったが才能も運も足りなかったのでぜんぜん仕事も増えずに、転職するには限界かなとなる年齢まで来たので諦めていま普通に働いている、という身なので非常にわかる話ではある。あるが、普通に働くと決めた以上は、諦めたことを引きずっているのであればその不本意な経歴をピエロの仮装みたいに着こなして踊り狂って残りの余生を送る、もしくは気持ちの整理ができたと思えば謎の全能感を身にまとって「おれは今までこれだけすごいことをやっていた。次も新しいことにチャレンジする」とうそぶく、このどちらかが正着だろうと思っているので強く生きてほしい。

 

ただ目についた部分で、ここは共感できないなと思った部分があった。

ツイートを投稿したアカウントのbioに「もしも、余裕がありましたら一言「頑張ったね」とリプを頂ければ幸いです」という一言があったことだ。

『頑張ったね』?

何も知らないインターネットの人間にそんなこと言われて、わざわざスクショ4枚使ってまとめた『お気持ち』はそんなもので慰められるものなのか?おれには全く理解できない。たとえ知り合いだとしても「がんばったね」なんて言われたら「社交辞令だと思うがそう言ってくれるのはありがたい。が、お前はおれがどうがんばってどう諦めたかをたぶん理解できていないから軽々しくは言わないでほしい」という気持ちになる。書いてて思うけど、ずいぶんこじれちゃっててなんて面倒くさいやつなんだろうな。「そうだねー」とか言っとけば良い話だし、「がんばったね」と言ってくれた人もそんなに悪気はないし、なんならまともな人だ。おれもそれは頭では理解しているから「そうだねー」って言う。

それでも。

リスク背負ってチャレンジしようと思ったのはおれ自身だし、何年かはやり続けていたのもおれ自身だし、気持ちが折れてがんばれなくなって諦めたのも、諦めることに決めたのもおれ自身で、まともな道に戻れるように日和ったのもおれ自身だ。他人の「がんばったね」「大変だったね」なんて言葉が入るスキはこの一連の流れには存在しない。当たり前だろ。やりたいようにやってダメになったんだから挫折に至った道くらいはおれだけのものにしてくれよ。そもそも「がんばったね」なんて言われるほどがんばってたら諦めずにまだチャレンジしてる。限界を突破して普通の生活を放棄できるほどの覚悟も狂気もない。こんな日記書いてる時点で「がんばってない」。

じゃあどうだったら納得できるんだろうな。「がんばりきれなかったね」がいいのかな。うん、「がんばったね」なんて言われるよりだいぶしっくりくるし、心から笑顔で「そうだったんだよ~」って返せる自信がある。

 

(踊りながら)がんばりきれなかったね~。